2012年12月4日火曜日

序章Ⅰ <3>


日没後のライトアップされた温室は、
夜舞い降りる黒い天使の居城にふさわしい。

ファロウの屋敷から帰ったアエンは、
ルドルフの姿を探して温室に入った。
ベッドを覗くが、人の気配はない。

不安ばかりが募り、アエンは知らず早足で薔薇園を歩き回った。

薔薇園はやがて終わりを告げる。
スポットライトを当てたように、ぽっかりと開いた空間で、
アエンはその足を止めた。

 息が止まるかと思った。

言い知れぬものが、アエンの胸を占め、思考を奪った。
果たしてそこに、ルドルフがいた。

金糸のような長い髪を床に広げ、
全裸の白い肢体を仰向けに投げ出して、
温室の奥にしか咲かない青い薔薇を、
体の上に散りばめて眠っていた。

まるで、青い翼の天使が、そこにいるようだった。
 あまりにも美しくて、アエンは体を動かすことができなかった。

よく見ると、ルドルフの右手は血にまみれていた。
アエンは、ようやく我に返り、ルドルフの傍に跪いた。
眠っていると思ったルドルフは、気配に気づきそっと目を開けた。

「ルド……遅くなってすまなかった」
「……」

ルドルフの、サファイアのような両目に涙が浮かぶ。
それすらも美しくて、アエンは眩暈を覚える。
なぜ、この人はこんなにも悲しい美しさを持っているのだろう。

「心配をかけたね。夕刻には戻ると……そう言ったのに」
「いい……今……そこにいるのなら」
「何も良くないよ」

アエンは、ルドルフの頬に幾筋もの涙の痕を見つけて、そっとなぞった。

「私のいないところで……あなたが泣いていたのだから」

ルドルフがゆっくりと、三回瞬きをする。
その間に、頬に、額に唇を寄せ、
アエンはルドルフの体に覆い被さった。

ルドルフは、指一本動かさず、ただ静かにアエンを見上げた。

「……私は謝らなければならないな……」

ルドルフがつぶやく。消えそうな声だった。

「お前に断りもなく、体を傷つけた」

「……薔薇を毟ったんだろう。
あの棘は、あなたの肌には少しきついだろうね」

「……そうじゃない」

問うように瞳を覗き込むと、
ルドルフは投げ出した自分の右手を見た。

……何故気づかなかったのだろうか。
アエンは気が遠くなるのを感じた。
ルドルフは、左利きだったのだ。



 「お待たせしておりますね」

声をかけられて、ファロウは本に栞を挟み、首を振った。

「私が早く着きすぎてしまったのです。おかまいなく」
「焼き菓子はいかが?」
「ありがとう。十分いただいています」

「紅茶を淹れ直しましょうか」
「……ええ。いいえ、結構」

白髪を結い上げた、清楚な老女中は、
ふっと笑って窓辺に歩み寄った。
そこからは、温室が見える。

「あの、マリア」

マリアは振り返り、少し首をかしげた。

「あなたは今でも……彼を追い出すべきだと思いますか」
「思いますよ」

マリアの言葉に、何かを言い返しかけたが、
ファロウは結局、少し視線をそらしただけだった。

「しかしね、そんなことをするまでもないと気づいたのよ」
「彼は、いつか死ぬとお思いですね」

ファロウの言葉に、マリアは少し笑って首を横に振った。

「たしかにルドルフには危ういところがありますけど、
彼は死を選ぶより早く、あの温室を出て行きますわ。
誰にも何も告げず、まるで風のように」

「それは……」
「私が追い出すわけではありませんのよ。それが彼の生き方だから」
「アエンは、どうするでしょうか」

「夢を見ていたのだ、と思い込むより他に、手段がありますか?」

マリアの声に、少しの哀れみを感じ取って、
ファロウは少し俯き、両手を組んだ。

「……何者なのでしょう」
「わかりません。……あるいは、ルドルフ本人にすら」

マリアは、窓に手をかけ、少しだけ開けた。
微かに、温室の方から薔薇の香りが流れてくる。
ファロウは、すっかり冷めてしまった紅茶を、一口含み、目を閉じた。

「幸福だとは思えません。そんな愛が。
……いいえ、それを愛と呼んでいいのかもわからない。
しかし……アエンは、確かに幸福なのだ」

「そうですね」

マリアの視線を感じて、顔を上げる。
彼女は、まるで母親のような目をしていた。
そして、にっこりと笑い、マリアは窓を閉じた。

「初めてではございませんのよ」
「?」

紅茶のカップをトレイに載せながら、マリアが言った。

「あんなふうに、この家に途轍もない幸福と、
不幸が吹き込んできたのは」

「それは……」

マリアは、軽く一礼してそこを退出する。
ファロウは、口元に手を当てて考え込むように眉根を寄せたが、
吐息と共にそれを吐き出した。


つづく


(2006年2月22日発行 個人誌より転載)

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