2013年2月7日木曜日
序章Ⅱ <7>
荒い息遣いが響く。
何度も激しく咳き込みながら、レイアはシーツを握り締めた。
ギリギリだった、となぜか安堵した。
エディの馬車が門を出た頃、発作が始まったからだ。
咳が止まらない。
サイドテーブルの水差しに伸ばした手が滑って、
床に水をばら撒いてしまい、和らげるための薬も飲めない。
レイアの手は、そのままナイフを握った。
激流で溺れる者のように、必死で握り締めた。
肌が裂けて血が滴る。
その痛みが意識を保たせた。
吐いた血でシーツは真紅に染まっている。
蹲って耐えるうち、レイアの頭の中にはもう、
エディの微笑しかなかった。
(……エディ……)
ようやく咳が治まり、肩で息を整える。
体を投げ出し、懸命に眠りへの糸口を探した。
(エディ……結局一度も言わなかった……口付けさえ、交わさなかった……)
瞼を押し上げるだけの力はもはやなかった。
意識が徐々に穏やかになり、やがて激しい睡魔が訪れた。
これが「死」か、とレイアは思った。
(愛している……エディ。お前を……お前だけを……)
レイアの唇が、微かに動く。最期の言葉だった。
「離さないでくれ」と。
おわり
2005/01/22 ASAMI KAMIO
(2006年2月22日発行 個人誌より転載)
2013年1月31日木曜日
序章Ⅱ <6>
馬車に揺られ、車窓を眺めるうち、
全てが夢だったのではないかと思う。
レイアには会わなかった。
全て、次の往診に行くまでの夢だったのだと。
忘れよう、と思っても忘れることなんかできないとわかっていたし、
忘れたくなどなかった。
──……忘れるんだ、エディ
レイアの必死な瞳が痛かった。
死に行く者の瞳だと思った。
──ここから去るんだ。私のことを忘れて。
そうすれば私は、お前のことばかり考えながら逝ける
レイアが覚悟しようとしているのがわかった。
一人で戦おうとしている。
その戦いに、自分が必要とされていないことも。
──頼む、エディ。行ってくれ
行かないでくれ、という響きは皆無だった。
でなければ、去ることなどできなかった。
覚悟が必要なのは自分だと知った。
エディは車窓の田園をじっと見つめ、耐えた。
つづく
(2006年2月22日発行 個人誌より転載)
2013年1月24日木曜日
序章Ⅱ <5>
窓から優しい風が吹き込んできて、カーテンを膨らませ、
そしてレイアの髪を乱した。
ソファに腰掛けたレイアの膝を枕に、エディが眠っている。
レイアは、その髪を、頬を、飽くこともなく撫でている。
静かな風が、そっと囁きかけてくれる。
レイアは、そっと微笑んだ。
エディの頬には、幾筋もの涙の痕がある。
不意に、エディのまつげが震えてその瞳が開かれた。
「……レイア?」
そこにレイアがいないことを恐れるように、エディが囁いた。
答えるようにその手を握ると、エディの体から力が抜けた。
「……怖い夢を見た? エディ」
「夢なら……良いと思う」
夢などではない。エディは、言外に言っていた。
「もう少し眠るといい。……こうしているから」
「レイア……」
「それとも、私の膝は居心地が悪いか?」
エディは、レイアの白く繊細な指を口元に寄せて、
そっと口に含んだ。
「あなたと一つになりたい」
言ってから、そっと首を振る。
「……忘れてくれ」
レイアは、エディの唇をなぞり、
しばらく触れていたが、結局離した。
そして、エディの頬に手をかけ、顔を上げさせる。
視線がぶつかると、エディの少し腫れぼったい瞳が見上げてきた。
「叶わぬことだと思っている?」
「私が、あなたと何をしたがっているのか、わかってるのか?」
「わからないほど子供じゃないさ」
エディは、少し驚いたような顔をしたが、やがてふと笑った。
「……私にそんなことはできないと思っているな、レイア」
「試してみればいい」
「その気はない」
吐息と共に呟いて、エディは再び目を閉じた。
「……その気はない?」
「レイア、あなたの体なら、見ていない所はない位に知っている。
今の状態もね。その上で、あなたに負担はかけられない。
一度あなたの肌を知ってしまえば、きっと私は夢中になる。
だから、あなたを抱くことは私にはできない」
「できないことを言うものじゃないな」
レイアの言葉に笑みが含まれていたので、エディは目を開け、
口元だけで笑った。
「……そうだな」
レイアの指が頬をなぞる。
エディはその手を掴み、袖をまくった。
レイアが怯えたように手を引こうとしたが、許さなかった。
「昨夜も切ったのか?」
「……ああ」
「……」
エディは、何も言わずにそっと傷跡に唇を寄せた。
「もう切る必要もないのだがな、エディ」
「……うん?」
「私は幸せだったよ。こんな体にならなければ、
お前とも出会えなかっただろう」
エディは、すこしだけゆっくり目瞬きをして、
レイアの言葉の意味を考えた。
「レイア、なぜ過去形で話すんだ?」
「過去の話をしているからさ」
レイアが、そっとエディの瞳を覆う。
「……お願いがあるんだ」
つづく
(2006年2月22日発行 個人誌より転載)
2013年1月17日木曜日
序章Ⅱ <4>
いつのまにか、こんなに小さくなってしまった空を、
それでもレイアは最上の幸せと共に見つめる。
冬の、青くどこまでも高い空に、刷毛で刷いたような白い雲が流れる。
風の中に、いまだ春の足音はなく、永い冬はまだ終わりを見せない。
この輝かしい朝の日光を、何よりも愛しいと思った。
あなたのぬくもりを知ったから、冷たい風に凍えることはない。
あなたと過ごす夜があるから、朝を疎むこともない。
あなたと生きた時間があるから、もう死を恐れることもない。
口元に笑みをたたえ、レイアはテラスに立つ。
翼を失った渡り鳥は、しかし決して不幸ではなかったのだ。
あなたの元に留まりたいと、自らその翼を毟って、通り過ぎ、
この季節と共に去るはずだった風を見送り、
それでも渡り鳥には耐え難い季節がやってくる。
しかし、たとえそれで息絶えても、あなたと離れる時間の方が、
どんなにか辛いだろうかと。
翼のように肩からはためかせていた薄いショールを、手放す。
風に巻上げられて離れていくショールは気にも留めず、
レイアは素足のままでテラスから花壇に上る。
冷たいレンガの感触がして、レイアは片足に体重をかけ、
空に向かって両手を伸ばした。
二度と帰れない空を泳ぐ、鳥たちを羨むことはもはやない。
「……エディ……」
あなたとの出会いのシーンは、もう思い出せない。
それほどに、あなたという存在は、あまりにも近く、遠く、あった。
「エディ……」
呟く声は、空高く舞い上がり、そこには何も残さず、消える。
虚ろな瞳から流れる涙は、風にさらわれて跡を残すこともない。
一度閉じて、開いた瞳には、力強い光があった。
まだ……終わることはできないから。
つづく
(2006年2月22日発行 個人誌より転載)
2013年1月10日木曜日
序章Ⅱ <3>
暗い室内で、レントゲンフィルムを映し出す明かりだけが、
頬に反射していた。
エディは、目瞬きもしない。
険しい表情で、じっとフィルムを睨み付けている。
先刻から、その様子を見ていたレイアは、声をかけるのを諦め、
室内に足を踏み入れた。
こちらには気づいただろうが、エディは反応しない。
レイアは、少し身を屈めて、エディを後ろから抱きしめた。
涙こそ流していなかったが、エディが泣いているのを感じた。
「……深く考えることじゃない」
耳元にそっと囁く。まるで睦言のように。
「大丈夫……きっと」
「……何が」
「わからないよ」
エディが、こちらに身を持たせた。
その重みを受け止めて、レイアは腕に力を込めた。
「でも、エディ。大丈夫だ。そう思っていれば、大丈夫」
「あと二週間だ」
唐突に、エディが言った期限が何を表すのか、レイアは瞬時に悟った。
そして、小さく吐息し、頷く。
「それだけあればいい」
エディが、レイアの腕に手をかけ、確かめるようにさする。
それに応えて首筋に口付け、
「充分だ」
強く言った言葉が、エディの涙を止める堰を崩した。
子供のように声を上げて泣くエディを、じっと抱きしめる。
じっと……抱きしめる。
つづく
(2006年2月22日発行 個人誌より転載)
2013年1月3日木曜日
序章Ⅱ <2>
カタカタという音に目を覚ますと、そこはレイアの部屋だった。
昨夜のことが思い出せずにベッドの方を見ると、
レイアが頭まで毛布を被って眠っていた。
いつもなら、傍まで行って呼吸をしているか確かめるのだが、
今日はここからその小さな山が上下するのを、確認するのに留めた。
エディは、ソファの上に横になって、
レイアのもう着ることもなくなったカシミヤのコートをかけられていた
サイドには、すっかり冷め切ったコーヒーカップが二つ置かれており、
片方……レイアがいつも使っている方は空だった。
ふと……カップの下に紙片を見つける。
レイアの書く、癖のある字で、メッセージが書かれていた。
エディは、その文字をそっとなぞって、ベッドの方を見た。
毛布の小山がもぞもぞと動いて、
寝ぼけ眼のレイアの頭がひょっこりと覗く。
「……おはよう、レイア」
声をかけると、レイアはこちらに笑いかけ、挨拶を返そうとした。
が、それは激しい咳によって阻まれる。
「レイア……っ!」
蹲って咳を繰り返すレイアに駆け寄り、
エディはその背中をさすろうとして、目を見開いた。
シーツが真紅に染まっている。
「レイア……?」
ようやく治まり、肩で息をするレイアを、覗き込む。
レイアは苦しそうに眉を寄せ、再びベッドに横たわった。
その顔を、こちらに向ける。レイアは吐血していた。
「……エディ……」
かすれる声がエディを呼ぶ。
「エディ……?」
「ここにいる」
手を握ってやると、レイアは安心したように小さく微笑んだ。
「……傍にいてくれ。多分、私はもう……」
「言うな」
「エディ、逃げても仕方ない」
「逃げるわけじゃない。……とにかく、一度診察をしよう」
「意味がない」
「レイア!」
声を荒げてから、後悔する。
レイアは、悲しげな瞳をしてこちらを見、次に目を閉じた。
「……レイア、頼む。一度診せてくれ。……お願いだ」
レイアの口元を、袖口で拭う。
レイアは、その手をそっと押さえて、エディを見た。
「それで、お前の覚悟が決まるなら」
「そんな風に言わないでくれ……」
「でもそういうことだ」
「レイア……」
エディの腕が、レイアを抱きしめる。
離さない、離したくないと、切実に訴えるその腕を、
レイアはじっと受け止めていた。
運命を負わされた者はそれを受け入れるしかないが、
その者を見守ることしか出来ない者は、どうしたらよいのだろう。
レイアの頬を、一筋の雫が零れ落ち、消えた。
つづく
(2006年2月22日発行 個人誌より転載)
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